献血をサービスという視点で考えてみた
久しぶりに献血をしてきました。
輸血用の血液が慢性的に不足して言われていますが、このコロナ禍により人が外出を控えるようになり、ますます不足しているとのことです。(待合室含め)中の状況はプライバシーの関係もあり撮影できませんでしたが、人がまばらにいる感じでした(それでもいることに驚きました)。
輸血はなにも突然の事故だけでなく、自らが血液を作れない病気の人のためにも行われます。1回の輸血で数十人分(1人分400ml)の血液が必要になることは特別なことではないそうです。
余計なお世話ですがどうしたら献血をこれまでより多くの人にしてもらえるか、について考えてみました。(すこし不謹慎な内容も含んでいるため不快に感じる方もいると思います。)
献血をする人は「誰かのために、、」という気持ちが強いと思います。無料のお菓子やジュースを目的に来る人はそう多くはないと思います。
献血することを通じて社会との繋がりを感じる、We are not alone というのが、たぶん一般的な献血の対価だと認識されていると思います。
でも果たしてそれだけでしょうか。
中には注射を打たれる時のスリルがたまらない人、献血している最中に感じる無力さに快感を覚える人、看護師さんに介抱されることが好きな人、(不謹慎ですが)若い看護師さんとの会話を楽しみたい、眠いからエアコンの効いた部屋で横になりたい、漫画が読みたい、お菓子とジュースが食べたい飲みたいなど、同時に得られる対価(=価値)は他にも多く考えられます。
しかし私にはそれらが十分に気づけていないような気がしました。
声を枯らして道ゆく人に献血をお願いすることも、プレゼント企画を一生懸命考えることも意味はあります。ですが、もう少し大きな視点で考えることが大切だと思います。
残念ながらプレゼント企画はもので釣ろうとも見え、逆効果なんじゃないかなという気がしました。献血という行為を物々交換にしてしまえば、献血者は間違いなく減少します。見え方には十分に注意することが必要だと思います。(記念品はもっと洗練できる!)
献血という行為は健康な方であれば誰でも対象になりえますが、現実にはごく限られたリピーターが支えていると言っても過言ではないと思います。
だれが何の目的に来ているか、もっともっと観察していく必要があると思いました。
もうちょっと具体的にすると、それぞれの人がどんな価値を交換しているか、ということになります。
会場によって年齢や性別、職業にばらつきがあると思います。
ターゲットを明確にしていくことで、できることや優先順位が変わることがあります。
例えば、横になれることに価値を感じている都会のサラリーマンがいるとします。その人にとっては受付でこれでもかと質問されることは嬉しいことではありません。あらかじめ専用のアプリで回答ができ、着いたらすぐ始められる(横になれる)ことができたら、おそらく献血体験全体の満足度が上がると思います。
また、看護師さんとの会話を楽しむことに価値を感じている人であれば、献血中ずっと放って置かれたらつらいでしょう。話し相手は女性が良いのか、男性が良いのか、若い人、または人生の相談ができそうな人、ではどんな話題が良いのか、など普通のサービス業で行っている感覚を持つだけでも違うと思います。
誰がなんのために来ているのか。
デパートの中にある献血ルームとオフィスビルにある献血ルームとでは、来る層は確実に違うはずなので、もっとエッジを効かせても良いのではと思ったりもします。
献血を崇高な行為とみなさず、もっと世俗的で、ずばり原始的な価値も交換されていると捉えれば、見方はだいぶ変わるのではないでしょうか。
金銭の授受が行われないので特別に考えてしまいそうですが、同じようなことは世の中いくらでもあります。
このブログもそうですし、アマゾンのコメント欄に感想を投稿することなど、無償で時間と労力が費やされていることが世の中多々あります。そこではお金ではない価値が交換されているわけです。
何が交換されているのか。
価値は目に見えないので簡単に見つかるときも、そうでないときもあると思います。
ちなみあのファブリーズは発売してしばらくまったく売れなかったそうです。(ペットを飼っている人や喫煙者の利用を想定したものの、においに慣れてしまっていたため、需要がなかったとのことでした。)
あの世界のP&G社でさえ、見誤ることがあるわけです。ただすごいのは、そこからヒットさせたこと。。
思いこみすぎず Try & Retry、なんでもこのへんのバランス感覚が大事なんだと思います。ぜひ献血を。